痛みを知る子どもたち
センター入試試験が過ぎると、一月下旬から私立大学入試が始まる。あらかじめ出願を済ませていた生徒たちは、順番に天香學園の門をくぐって行った。
推薦で入学先が決まっている生徒と就職先が決まっている生徒たちは寮を出る準備を始める。物件探しに行く生徒もいたし、引っ越し業者も決まって家具選びに出掛ける生徒もいる。
寮に留まりつづける生徒というのはほとんどいない。
皆守はそのうちの数少ない一人で、ランドリー室でアロマをぷかぷかふかしつつ、賑やかな廊下の声を聞いていた。どこの引っ越し業者はぼったくりだの、どこは電話口の態度が悪いだのと文句を言っている。たいして社会を知っているわけでもない柵の中の羊だったというのに、卒業を目前にして一丁前になった気でいるらしい。
退寮については、引っ越し業者を學園側がある程度選定しているのだったが、遠方の地方に帰る生徒などは自分で手配する必要がある。去年までは學園が手配する業者でないならば、生徒の親族しか許されていなかったが、今年からは不問となった。
これから、この學園でできることはどんどん増えていくだろう。
皆守の待っていた乾燥機がブザーを鳴らす。吸いさしのアロマスティックを一本分のんびりと味わってから、腰を上げた。
男子寮で共有になっているバスケットに、洗濯と乾燥を終えた衣服やシーツを詰め込んだ。まだ熱い。無頓着に扱っているので、シャツの袖とシーツが絡まっていたが、無理矢理に引き出した。糸が千切れるような音が聞こえたが、無視する。今さら、どこが破れたっていい。
廊下に出ると空気が埃っぽく、肌寒い。ランドリー室は並ぶ乾燥機のためか、湿度が高いだけでなくもったりとしたぬくみがある。
バスケットを片手に提げたまま、のろのろと歩く。一、二年生は授業中だから、土日に比べれば静かだが、卒業を間近に控えて怖いものがなくなった三年生のうるささは想像以上だった。人通りの少ない廊下は陸上トラック代わりになっているし、昨日は踊り場で全裸に近い格好になって組み体操しているやつを見た。そんな恥を携帯電話のアルバムに残すことの何が「思い出」なのか、皆守にはさっぱり分からなかった。
だが、今までは一瞥だけして忘れていた。そんな馬鹿に興じている生徒をただ眺めた記憶がまだ自分の中にある。こういうことがまた思い出なんだろう。なに馬鹿みたいなことやってんだ、と呆れながら眺めているこの時間は数年後には懐かしいものになるのかもしれなかった。
すべてがそうなのだろう。
何年も使われてくたびれ、元は青だったと思われるプラスチックのバスケットは疲労で白っぽくなっている。手触りはざらついている。
廊下に一定の間隔をあけて並ぶ窓の桟は泥が詰まっているし、ガラスは雨風の汚れが残っていた。自分たちの住まいは自分たちで清める、清掃は心を清めることに繋がる、というのは教師の言だが、そんな御託に踊らされるほど素直な男子高校生はいない。
娯楽は少なく、一人でいられる時間は寮の自室にこもっているときだけだ。もっとも、一人で部屋にいたとしても、よその部屋の騒ぎが聞こえてくることも珍しくなかった。
近くに森があるせいで虫が多く、季節によっては網戸にすずなりになったカメムシにぎゃあぎゃあと騒ぐ生徒が現れる。わざわざ室内にカメムシを招きいれて、案の定の悲惨な現場を作る生徒だって、一年の間に複数人いる。そういうやつは友人の部屋を順繰りにまわって、臭いが収まるのを待つらしい。
全部、とてもじゃないが二度は味わいたくない。この一度で充分だし、味わうことなく済むのであればそれでもいい。
けれども、三年間にそれらすべてがあった。
皆守はそれらの中心にいたことはないけれども、それでも胸を刺すものがある。
もう、この寮でカメムシを見る季節は来ない。
ぶらぶら自室に帰って、足でドアを開く。バスケットを放り出して、部屋の電気をつけた。まだ昼間だが、カーテンを閉めっぱなしにしているせいで、薄暗かった。蛍光灯がまばたきをいくつかしてから、部屋を白く照らす。
洗濯物はランドリー室に行くのも面倒なら、待ち時間も面倒だし、元の通りに片付けるのも面倒だ。放り出したバスケットは、もう見ないふりをした。
靴を脱いで荒っぽく壁側に寄せたところで皆守は動きを止めた。この部屋を出たときにはなかった靴が一足あった。つま先に金属板が仕込んであって、ソールが厚い。靴の縫い目には砂や泥がへばりついていた。
皆守ははっとして室内を振り返った。
狭い学生寮の一室、ベッドの上に座る男は眉尻を下げて笑い、
「よ」
と言った。
彼の顔を見ると、胸を刺すような心地がした。この男の背後にある、皆守に想起させる時間の群れが一気に襲いかかってきたような痛みだった。
その痛みに、皆守は息が途切れた。けれどもすぐに元通りになって、声が出るようになる。痛みのあとに来るのは、血が勢いよく流れるような興奮だった。
「お、まえ……」
「久しぶり。といっても二ヶ月くらいだけど」
「ああ、……いや、言いたいことは山ほどあるんだが、ベッドにシーツ敷いてないからそこ退け」
二ヶ月ぶりに見る葉佩九龍は二ヶ月前に見たときとほぼ同じ風貌で、けらけら笑いながら腰を上げた。
「ここ、変わらないな、むしろ警戒が緩くなったんじゃない?」
「もう警戒するもんもないしな」
天香の墓には、もう誰もいない。目覚めた者もあれば、目覚めなかった者もある。
長い年月が経ちすぎて、目覚めなかった者のうちいくらかはどこにも戻せなかった。學園に無縁塚を立てる案もあったが、墓地の存在にも維持にも関わらなかった生徒たちには余計なものになってしまう。生徒たちに責任はなく詳細を語ることもできないのに、二度と帰らない十代の學園生活に塚が入り込むのは少々無配慮だ、と千貫と瑞麗が主張した。
確かに、そういう側面はあるだろう。
問題はまだ片付いていない。だが、警戒すべきものは残っていない。
「はは、うまくやってるんだ」
「うまくはできてないさ。まだ問題が山積みだ」
「へえ、例えば?」
「まずは瓦礫だな。大きなやつの大半は除けたし真里野の奴が切ったのもあるが、片付いてはいない。崩れるところもあるしな、まだ墓地は生徒立ち入り禁止だ」
皆守の語る内容に反して、葉佩は面白いことを聞くような顔をした。皆守はすたすた近寄って、足元を蹴る。
「んだよ、そのツラは」
「悪い悪い、おれが聞いたのは皆守の部屋とか、おまえ自身とか、そういうのについてのつもりだったからさ。感慨深くなっちゃって」
皆守は渋面をつくった。
確かに、葉佩は「ここ」としか言わなかった。「ここ」の範囲に天香學園全体を含めたのは皆守のほうだ。
「やかましい。で、どうしたんだよ。仕事は早く終わったのか? 卒業式は一ヶ月くらい先だぜ」
「ええ? 卒業式まで会いたくもねえってこと?」
「そんなこた言ってないだろ。なんも準備してないこっちの身にもなってみろ」
「卒業式にはおれを迎える準備してくれるつもりだったってこと? 今の聞いてよかったやつ? サプライズじゃなかった?」
「ああもう、おまえも全然変わらないな」
一言一言にじゃれついているせいで、話がいっこうに進まない。けらけら笑う葉佩につられて、皆守も同じように笑った。
葉佩は軽装だった。天香學園に入学したときだって、ほとんど私物をもたない男だった。
必要なのは仕事道具だけだ。その道具もここで暮らすうちにどんどん増えたが、離れるときに多くを手放した。次の仕事に拠点があるとは限らないから荷物になる、と彼は言っていた。
仕事帰りのはずなのに今の葉佩が軽装なのは、天香を出て行くときと同じような考えで手放してきたからだろう。堅いミリタリージャケットとワークパンツの取り合わせは珍しくなかった。
多くの物を手放して、手放さなかった約束のために葉佩はこの部屋にいる。
「天香いたときにさ、八千穂さんが三学期はほとんど授業ないんだって言ってた気がしたんだけど、本当?」
「ああ。今日だって、下級生は大人しく校舎の柵に収められてるが俺は自由だ」
「あ、ほんとなんだ。皆守は何してんの?」
「洗濯」
「毎日するわけじゃないだろ」
葉佩は玄関に置き放しになっているバスケットを見やった。ありとあらゆるものがぎゅうぎゅう詰めになっているはずだ。彼がランドリー室を使っていたときと同じだった。
「あー……その、なんだ、俺は浪人決定なんでな。やることがないっていったって、進路決まった他の奴らみたいに自由ってわけじゃない」
彼は目線を皆守に戻して目を細めた。皆守は目線を振り払うように、片手を顔の前で左右に振る。
「そんな顔するような話じゃない。どうせおまえ、また勝手に『感慨深く』なってんだろ。言っとくが、浪人ったって本当に浪人生できるか分からん。一年浪人ならともかく、二年はまずい。見込みないと思ったら一年経たずに就職だって有り得る。何せ、俺の高校三年間はろくな学生生活じゃないからな。それ取り戻すにしても、三年分をどこまでできるかって話だ。……センター試験の結果が返ってくるもんだったらな、おまえに見せてやりたいぜ」
「いいじゃん、それもそれで」
「他人事だと思いやがって」
「……ま、ふざけるのはこのくらいとして、三年分って言っても、受験対策に限ると思えば実質そんなでもないだろ? 受験科目に体育とか技術とか音楽とかは基本、ないわけだし。何科目あんの?」
こいつ、受験のシステムを多少なりとも知ってるんだな、と皆守は思った。
だが、ホームルームでこれらの説明をまったく聞いていなかった皆守に比べて、葉佩は耳に入れた上で流していたのかもしれない。最低限のことくらいは把握しているのかもしれなかった。突拍子もない職業とはいえ、向こうは社会人である。
「……国公立なら八。私立なら三」
「ああ、そんな感じだったな。どっちか決めてるの? さすがにこれからか」
「そうだな……現実的に考えれば私立の三科目なんだが、理系は学費がかさむからな」
皆守はほとんど大学を知らない。あと数ヶ月のうちには絞るべきだが、まだ未確定だ。
返答に満足した顔で、葉佩は何度か頷いてみせた。
「そうか。ま、どうなっても、きっとうまくいくよ」
皆守はそんな気休めに噛みつくことはいくらでもできたが、ただ相槌だけを返した。
言葉面だけを捉えれば気休めだが、彼の声と表情と、今まで積み上げてきた数ヶ月を思えば、これが気休めではないことは感じ取れた。
目の前にいる男は、とうに自分の進路をこれを定めているような男だった。皆守ほど怠惰に過ごした期間があるとは思えないが、すべてが順調というわけでもないだろう。苦労知らずで歩いてきた者と思うには、葉佩は迷う者への理解が深かった。
「で、だ。皆守はどうなん、今日は。余裕ある?」
「余裕?」
「勉強予定だった? 邪魔しないほうがいい?」
「まあ、予定はしてるが……おまえ、またすぐ出るんだろ。もうここに部屋があるわけでもない。しばらく近辺にいるとしたところで、のんびりした職場じゃないって、前に言ってたしな」
「そう。自由に動けるの、明日の四時までなんだ」
四時、と皆守は考えた。当たり前に考えれば夕方だが、この男が言う四時となると午前四時の可能性がある。
皆守の思案顔を見て、葉佩は自分の言葉足らずに気がついたらしい。ごめんごめん、と言いながら、付け足す。
「午前四時」
「だろうな、おまえは……。俺のことなら、何も用事なんてないと思ってくれていい」
「おれのために空けてくれる?」
「まあ、そういうことになるな」
葉佩は目の前にご馳走が並んだ犬みたいな顔をして「ありがとう」と言った。それから右手の指先を唇にあて、皆守に向かって投げて寄越す。
「いらんいらん。で、おまえのほうに何か予定があんのか」
「予定はないけど、提案ならある。皆守ってもう外出できる? もうあんなんなっちゃったんだし、外出禁止令も終わりだよな?」
皆守は頷いた。特に今の季節は受験生はあれこれと外出予定があるものだ。三年生は届け出をすれば当日でも外出が可能になる。葉佩は嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、ここから出ちゃえばこっちのもんか」
「……おい。何かたくらんでるな」
「皆守甲太郎くんに朝帰りを体験させてあげよう」
皆守は呆れた顔をした。
「前から似たようなもんだろ」
「じゃあ、その日々を懐かしんでよ」
葉佩がそう言うので、皆守は言葉に詰まった。
よりにもよって墓地からの朝帰りの日々は、懐かしむと言えるほど時間が経っていないはずだ。だが、墓地が崩れ去り、葉佩の部屋もここからなくなった今となっては、もう戻らない日々だ。それを思い返すことで胸に刺すものの名前は、確かに、葉佩がいま口にした言葉であるのだろう。
ずっと探していて、ようやく出会ったような気がした。
「……いいぜ。すぐに出るか?」
「そうしよう。一分一秒も惜しい」
「どこ行くんだ」
「まだ決めてない。暖かい格好してよ、それじゃ寒いから」
ずっと外出しない生活をしていたので、まともな防寒具がない。ぺらぺらのシャツばかりが掛かっている申し訳程度のクロゼットを振り返ると、葉佩もそこに目を遣った。
「あれしかない?」
「……そうだな」
「じゃあ駅前寄るか。どっちにしろ、卒業したってしばらくは寒いんだしコートは厚いの持ってた方がいいだろ。皆守、寒がりなんだし。待て、……てことは、皆守、新宿駅見るの三年ぶりってこと? やばいな、絶対におれから離れないほうがいいよ」
「平日の昼だぞ」
「もうその発言からして危ういな。新宿駅前の混雑に朝も昼も夜も平日もない」
皆守は、葉佩から自分が非常識かのような扱いを受ける日が来るとは思っていなかった。不機嫌そうな顔を作って葉佩を睨めつけたが、彼はどこ吹く風で、飄々と皆守の横をすり抜けて玄関へ歩いていった。すれ違うとき、喉が渇くような香りがした。
「届け出とかするの?」
「書類を一枚書くだけだ」
「職員室?」
途端に緊張感が走る。皆守はとんと自分に縁がなかった外出届について、場所と届け出先を思い浮かべた。
「……そういえばそうだな」
「一緒に行こうかな。ヒナ先生に挨拶してないんだ」
葉佩がからっとそう言うので、皆守は息をつく。まだそんなことを言ってるのかと自分で呆れもするが、まだ職員室の敷居は皆守にとって棘の生えた門だった。
葉佩は玄関で靴を履く。そのあいだに皆守は窓の鍵を掛けて、携帯電話と財布だけポケットに突っ込んだ。
外出するときは何が必要なのだったか、もう忘れてしまった。防寒具は、まともなコートがないにしろマフラーも手袋も、たいしたものを持っていないので諦めた。晴れているので傘も不要だ。
あとは何もいらないだろう。
皆守は玄関に立って待っている葉佩を振り返り、部屋の電気を消した。ふっと薄暗くなるが、カーテン越しの光をドアノブが反射した。
二人で部屋を出て、鍵を閉める。
葉佩と二人で肩を並べて寮を歩くのは二ヶ月ぶりだが、寮から学外へ出るのは初めてだった。
今日というこの日ですら、明日にはもう戻らない。
いつか、今日この日を思い返して、胸を刺すような痛みを感じることもあるに違いない。確信は、皆守にとって幸福のひとかけらだった。この痛みを多く持つ者がどんな人間か考えたとき、皆守はそこへ近づく自分の吐息を感じている。
『痛みを知る子どもたち』
author:青果