『九月は慢心の香り』
甲太郎に会いたい。
そんな自分の願いに気がついたのは天香學園から離れた十年後だった。
僕が甲太郎に会いたい?そんな訳はない。もう会いたくないのに、傷つきたくないのに、また突き放して甲太郎を傷つけてしまうかもしれないのに。
内に芽生えてしまった願望に気付いてからはトレジャーハンターとしての任務に没頭し、知らぬ振りをする僕に訴え続ける内側からの叫びから逃げ続けていた。
そんな日々を送っていた僕の姿は流石に目に余ったのだろうか。協会の人から「相談に乗るよ。」と声をかけられてしまった。仕事上での繋がり、ましてや友人でもない相手に「昔の友達に会うか迷っている。」だなんて相談などできる筈もないのだが、弱りきっていた僕は胸の内を吐き出してしまった。
うんうんと相槌を打つ相手はしばらく考え込んだ後にパッと口を開く。
「会うか迷うんだったら電話かけてみたら?」
電話。その発想は全く頭になかった。
でも電話なんてかけたら、と口を開きかけた所で着信音が鳴る。どうやら相手に任務が入ったようで、申し訳なさげに頭を下げて足早に去って行く。
暫く呆気に取られたが、そのまま自分も自室に戻る事にする。
◆
蒸し暑い部屋。いつ別の遺跡に向かうか分からない為に家具や荷物を殆ど置かないようにしている自室は、まるで自分の心象風景のように空虚だった。
荷物を床に放り、ベッドに腰かける。そろりとポケットに入れていたスマホを手に取り、電話アプリを開いた。
長年打っていなくても身に染み付いて覚えていた電話番号を打つ感触に懐かしさを感じつつ、当時の盲目的なまでに募らせていた想いが蘇り哀愁を覚える。
画面に写る彼の電話番号。後は発信するだけ。
数年ぶりに聞くバディの声、甲太郎を傷つけてしまうだろうか。散々迷いに迷い、震える指で発信ボタンを押してしまう。
どうか出ないでほしい。何も起こらないでほしい。きっとお互いに傷つくかもしれないから。
でも、少しだけでも声が聞きたい。
静まり返った部屋に呼出音が何層も塗り固めて塞いでいた筈の古傷に響き、抑え込んでいた想いが溢れ出す。
血が滲む努力を重ねてまで再会したがっていた想いを手酷く突き放した僕からの電話に、甲太郎はどんな顔をするのだろう。
僕の恋心を見抜いた上で受け入れてくれていた、泣きたくなるまでに優しい表情?長年僕の心を蝕み続ける傷を残したあの場所で浮かべた、悲しげな表情?
普段より大きく聞こえる心音と、永遠に流れているにようにも感じられるその呼出音。
「忘れるなよ、葉佩。」その言葉が、幸せだった三ヶ月が毎日僕の胸を侵食する。お互いの手を重ね合わせた放課後の夕焼けに溶けそうになった記憶が焼き付いて、離れない。
もがき続けても手足を囚われ沈んでしまう泥のような心中から解放されたい自分が電話をかけているのか、背後に漂う夕焼けと溶けて混ざってしまいそうな君の横顔に心を焦がれた当時の自分が電話をかけているのか、もう分からなかった。
甲太郎の、甲ちゃんの声が聞きたい。またあの笑顔が見たい。会いたい。ただ今はあなたに、
「おかけになった番号は」
あ。
ああ、ああ。
冷たさを持った機械音声が頭に響く。同時に見て見ぬふりをしていた考えが僕の背を這う。
頭の片隅にあったんだろう。卒業後に死に物狂いで僕の居場所を突き止めてまで追いかけてくれた甲太郎。あの人なら僕からの電話に散々出るか迷って、こちらを気遣う優しさや動揺と不安の中に、隠しきれない喜びを滲ませた声で僕の名前を呼んでくれるのではないかという期待が。
期待、淡い期待。その可愛い響きに身を隠した己の醜い慢心に首を絞められる感覚から、身動きも取れないまま床に崩れ落ちる。
じめじめとした微睡みに揺蕩う意識を現実に呼び起こす、残酷な程に明瞭な日差しが差し込む部屋で一人。
聞こえるのは、心を覆う泥が凝固していく痛みに漏れる自分の声と、長年の恋が過去の物になった事を知らせるアナウンスだけだった。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
「おかけになった電話番号は現在使われておりま
『錘の行方』
深紫に染まるビルの下、雑踏を夕時雨が飾る。
俺はその人混みから外れ、人気のない閑散としたキャリアショップの前にいた。
目的はただ一つ。電話番号を変え、十年抱え続けた胸の錘を下ろすため。
穏やかでありつつも体温を奪う雨の中、夕暮れを覆い隠す曇り空を眺め思い出す。
トレジャーハンターであり同級生であり、俺の中の特別な存在であった男。葉佩九龍と再会した時の事を。
◆
學園が呪いから解き放たれたクリスマスの後、九龍は姿を表さなかった。
八千穂や大和に九龍の事を聞けば「九龍は協会に居る」ということを苦い顔で教えてくれた。
九龍が俺に行き先を知らせずに黙って學園を去ったのは、恐らく玄室での出来事が理由だろう。それでも、せめて一言でも話がしたかった。
その日から俺は九龍を追う事に決めた。大学での研究、試験に必要な知識や実技の習得、協会の試験、九龍に会う為の道のりの一つと考えればどれも苦ではなかった。
とうとう正式に協会の職員になってからの行動は早かった。目に入った職員を片っ端から呼び止め、居るはずの九龍の居場所を聞く。
「九龍!」
何年も追い求め、ようやく見つけたその背に呼びかけた。
「……どなたですか」
返ってきたのは、こちらの身を切るように寒々としていながらも怯えが混ざった返事。
「俺だ。……皆守、甲太郎」
本当は忘れてなどいないのであろう、何度も耳にしたその声で呼んでくれた俺の名を口にする。
「皆守は、遺跡で死にました」
思わぬ言葉に、頭部を強打されたような衝撃。足が、身体が冷え固まって動かない。
遺跡で死んだ?そんな事実はない。あの雪の降る夜、崩落する遺跡から俺たちは少女達の力によって、
「僕は」
九龍がゆっくりと振り返る。その顔は今にも泣き出しそうで。
「僕の手で彼を助けられなかったんです。助けられなかったから、死んだんです」
薄紫色の瞳から玉のような涙をぽろぽろと瞳から零し、胸の内から絞り出したようなか細い声で告げる九龍。
「だからどうか、お引き取りください」
そう言って苦しげに顔を歪ませる九龍からの願いに、俺はその場を去るしかなかった。
誰もいない廊下でコツコツと自身の足音が響き、抑えきれないほどに膨張していく後悔が身体の内で暴れる。どうして会いに来てしまったのだろう。会えば酷く傷つけるだろうと分かっていた筈なのに。
遺跡の地下で対峙した時、俺の脳に焼き付いた絶望に染まる九龍の瞳。その瞳の色を、俺は忘れた事などなかったというのに。
九龍はもう、俺の声など聞こうとはしない。
声を聞きたくない程の傷を負わせた事は協会で痛い程に理解していたのに、頭の何処かでいつかまた会えるのではないかと、着信がかかるのを何年も願ってしまっていた俺。
くすんだ灰青色の期待を胸に着信を待ち続ける日々を過ごすごとに重量を増す罪悪感。それに耐えられなくなっていた事も確かだった。
電話番号さえ変えれば、来ない着信を待ち続けることもない。
自分勝手な期待を抱きその重みに耐えられず自壊をする男なんて、物語としても人としても最悪だろう。そんな事を考えながら店の入り口に立った。
自動ドアが開けば、走馬灯のように昔過ごした三ヶ月の記憶が蘇る。
いつも嬉しい事があれば、眉を下げて素直に笑う九龍が好きだった。屋上で身を寄せれば恥じらうお前を愛していた。目に涙を溜めながらも遺跡を突き進む九龍を守りたかった。お前を想う葛藤以上に、傍に居る心地良さと愛おしさが勝っていたのだ。
たとえこの身が尽きても守ると決めていた男、初めて心の底から愛していると感じられた男。
「九龍、愛している……」
気付いた時には既に漏れ出ていた、二度と届く事がない愛の言葉。その言葉を口にするにはあまりにも遅すぎたのだと悟るのに、時間はかからなかった。
◆
キャリアショップに入ってからの記憶はない。意識が明瞭になった時には、既に手続きが終わっていた。
店を出て夜空を見上げる。星の輝きなどない暗夜、相も変わらずしとしとと降る雨は止む気配がない。
長年抱えた錘を下ろして軽くなったはずの胸に残る、これから埋まることのないであろう色抜けた虚しさ。
待ち続けていた着信を受け取らなくなった携帯。それを握る手にあの日の温もりはなく、ただ渇きが手の内にあるだけだった。
『想いは染まり』
……ろう。くろう。
ゆっくりと瞼を開く。目に入るのは綺麗な黄金色に染まった屋上の景色。
「九龍」
隣から聞き馴染みのある低い声で名前を呼ばれる。どうやら甲ちゃんに寄りかかって眠っていたみたいだった。
「なあに、甲ちゃん」
「……随分魘されていたみたいだったもんだから」
確かに、言われてみれば悪い夢を見た気がする。僕が甲ちゃんを突き放して二度と会えなくなるような、そんな夢。
「ふ、魘されてたから起こしてくれたの?甲ちゃんは優しいねえ〜」
「お前、まだ寝ぼけてるだろ」
「寝ぼけてないでーす」
「ったく、どうしてこんな冷える時期に毎日屋上に連れて来られるんだか」
軽くため息をつきつつも頬が緩んでいる彼にもたれかかり、夕焼けの中で心地よい微睡みに身を委ねながら何気ない会話をする。この時間が大好きだった。
このまま夕日をずっと眺めていたい。もっと一緒に居たい。近づきたい。触れてみたい……彼と居るだけで十分である筈の胸は満たされるどころか、日に日に好奇心と共に欲も膨らんでゆく。
「あの、手を繋いでもいい、ですか?」
「なんで急に敬語なんだよ……手ぐらい好きにしていいさ」
「えっ!!いいの!?」
「もう少しボリュームを下げてくれ……」
耳を抑えながら、手のかかる子どもに語りかけるような声で話す甲ちゃんの姿に思わず吹き出すと「何吹き出してるんだ」と言わんばかりの眼差しを向けられてしまった。
でもまあ、許可は得られたので早速手を繋いでみる。
「……」
繋げない。化人から採れた素材で作った料理は口にできても、いくら友達の前でガーターベルトを装備して鞭を振り回せても、好きな人と簡単に手を繋げる程の勇気はなかった。
行き場を無くした手が右往左往して、どんどん頬が熱くなっていく。
「……手、繋がないのか?」
甲ちゃんが静かに聞いてくる。その声からは感情が上手く読み取れない。これはどちらだろうか。ただ単に次の行動を促されているだけなのか。もしかして、引かれたとか――
「九龍」
大好きな人の落ち着く声に優しく名を呼ばれれば、素直に反応を示す他ない。恐る恐る、下げていた顔を上げる。
「……あ」
ネガティヴな予想とは全く違った、優しい微笑み。まるで大切な人を目の前にしているかのような、恋をする人のような眼差しに釘付けになって呼吸すらも忘れてしまう。紫色、橙色、朱色。入り交じる薄明の中、慣れ親しんだラベンダーのアロマが包む夢のような景色に溶けていきそうだった。
「どうしたんだ?」
しばらく甲ちゃんに目を奪われて呆然としていた意識が呼び戻される。
「なっ、なんでもない!うん、なんでも……」
慌てて照れ隠しをする僕に視線をやりながら、不思議そうにしつつまた笑ってくれる甲ちゃん。
甲ちゃんは、甲太郎はきっと僕の想いに気付いている。僕も、彼の想いを感じ取っている。それでも口にはしない。口にしてしまえば最後、お互いの立場に苦しむのは目に見えている。
これは友情か、それとも恋情か。そんな事はどうでもいい。たとえ甲太郎が生徒会であろうと、この先に何があろうと、彼が好きなのだ。
ゆっくりと甲太郎の手に自分の手を重ねて握り、そのまま温もりを分け合う。互いの間に言葉はない。
ラベンダーの香りを纏った深紫が屋上を覆う中、十二月の冷えた風が頬を掠めた。
『おもいで色は遥か』
author:桜守